『一次元の挿し木』の真相は、七瀬紫陽が約200年前の古人骨の遺伝情報から生み出された存在であり、最後に樹木の会の教祖となる物語です。
石見崎唯の正体、牛尾の出生、山城美術館での最終対決まで、松下龍之介さんの原作小説を時系列に沿って解説します。
ここから先は、原作の正体・事件の真相・結末を含む重大なネタバレがあります。
『一次元の挿し木』原作の結論は?紫陽・牛尾・唯の正体を整理
『一次元の挿し木』では、約200年前の人骨と失踪した七瀬紫陽のDNAが一致する謎を入口に、日江製薬と宗教団体「樹木の会」が進めていた秘密の研究が明らかになります。
原作の核心を先に整理すると、次のとおりです。
- 七瀬紫陽の正体:ループクンド湖で発見された少女の古人骨をもとに誕生した、同じ遺伝情報を持つ存在
- 牛尾の正体:樹木の会の創設者・真鍋宗次郎の遺伝情報を受け継いで生み出された存在
- 石見崎唯の正体:石見崎教授の実の娘・石見崎真理
- 車椅子の「真理」の正体:病状が進み、外見が変化した紫陽
- 原作の結末:紫陽は悠と真理を守るため、樹木の会の新たな教祖になる
作中の仕組みを分かりやすく表現するため、本記事では紫陽と牛尾を「クローン」と記します。
ただし、作品では単なる科学技術の説明よりも、同じ遺伝情報を持つ人間が、元となった人物とは異なる人生を生きられるのかという問いに重点が置かれています。
原作は松下龍之介さんのデビュー作で、第23回『このミステリーがすごい!』大賞の文庫グランプリ受賞作です。
宝島社文庫から2025年2月5日に刊行され、出版社公式では「200年前の人骨と、失踪した妹のDNAが完全に一致する」という謎を軸にしたミステリーとして紹介されています。宝島チャンネル 宝島社の通販+1
項目 内容
作品名 一次元の挿し木
著者 松下龍之介
出版社 宝島社
刊行日 2025年2月5日
受賞 第23回『このミステリーがすごい!』大賞 文庫グランプリ
主人公 七瀬悠
中心の謎 約200年前の人骨と失踪した義妹のDNA一致
巻数 1冊で完結
物語は科学ミステリーとして始まり、殺人事件、家族の秘密、宗教団体の陰謀、追跡サスペンスへと姿を変えていきます。
けれども本作の中心にあるのは、奇抜な研究そのものではありません。
私は、生まれた目的を他人に決められた人間が、自分の人生を選び直せるのかという問いこそが、物語を貫く一本の根だと感じました。
『一次元の挿し木』原作あらすじは?古人骨と紫陽のDNAが一致

物語の主人公は、神立大学の大学院で遺伝人類学を研究する七瀬悠です。
悠は恩師の石見崎明彦教授から依頼され、ヒマラヤ山中のループクンド湖で発見された古人骨をDNA鑑定します。
ところが、分析結果を見た悠の時間は止まります。
約200年前のものとされる人骨のDNAが、4年前に失踪した義妹・七瀬紫陽のDNAと一致していたのです。
悠は機器の故障やサンプルの取り違えを疑います。
しかし、検査をやり直しても結果は変わりません。
悠と紫陽には血縁関係がありません。
悠の母・楓が、日江製薬の研究者だった七瀬京一と再婚したことで、二人は義理の兄妹になりました。
幼い頃に父を亡くした悠と、外の世界から距離を置いて育てられた紫陽。
孤独を知る二人は、血のつながりを超えて、互いを大切な家族として思うようになります。
紫陽は学校へ通わず、京一の書斎にある本を読みながら成長した聡明な少女でした。
しかし4年前、日江市を襲った豪雨災害を境に、突然姿を消します。
京一は紫陽を捜し続けるのではなく、失踪宣告に向けた手続きを進め、空の棺を使った葬儀まで行おうとします。
悠には、父親のその態度がどうしても理解できません。
さらに悠は紫陽の失踪後、学会の会場で彼女らしき女性を目撃していました。
それでも周囲は、紫陽が生きている可能性を否定します。
悠は少しずつ自分の記憶に自信を失い、心を安定させる薬を服用しながら生活するようになりました。
そんな中で突きつけられたのが、古人骨とのDNA一致です。
悠にとって鑑定結果は、科学的な難問であると同時に、「紫陽は本当に存在した」という記憶を支える証拠でもありました。
ここが本作の巧みなところです。
読者は「200年前の人間が現代に来たのか」という謎だけでなく、悠の記憶を信じてよいのかという心理的な迷宮にも入れられます。
石見崎教授はなぜ殺された?人骨盗難と関係者の動き
石見崎教授は古人骨と紫陽を結ぶ秘密に近づき、その研究に関係する情報を持っていたため、口を封じられたと考えられます。
ただし、「外部へ証拠を公表しようとしたことだけが直接の殺害理由だった」と作中で単純に説明されるわけではありません。
悠は不可解な鑑定結果について相談するため、石見崎の自宅を訪れます。
そこで発見したのは、クローゼットの中に隠された石見崎の遺体でした。
さらに、神立大学の研究室から古人骨とDNAサンプルが盗まれます。
鑑定を依頼した教授が殺され、検証に必要な資料まで消えたことで、DNA一致が偶然ではないことは明らかでした。
石見崎の通夜で悠が出会うのが、20歳の女性・石見崎唯です。
唯は石見崎教授の姪を名乗り、教授の娘である真理も行方不明になっていると話します。
紫陽を捜す悠と、真理を捜す唯。
目的が重なった二人は、完全には信用し合えないまま、事件を一緒に追うことになります。
調査の先で浮かび上がるのが、京一が代表を務める日江製薬と、新興宗教団体「樹木の会」の関係です。
過去の研究に関わった人物や、その秘密を調べた人物も次々と危険にさらされていました。
- アモール・ナデラ:古人骨の調査や日本への送付に関わり、襲撃を受ける
- 石見崎明彦:古人骨の鑑定を悠へ依頼した後、殺害される
- 小野寺洋一:日江製薬と樹木の会の関係を調査していたフリー記者
- 平間孝之:小野寺から調査資料を託された元上司
- 仙波佳代子:古人骨を利用した研究の核心を知る研究者
小野寺は身の危険を察知し、取材内容を保存したUSBメモリを平間へ託していました。
一連の被害を見ると、狙われたのは無作為な人々ではありません。
日江製薬の過去を知る人と、その事実を外へ伝えられる人が排除されていたと読み取れます。
そして、実行役として悠たちの前に現れるのが牛尾です。
2メートル近い長身に山高帽、ベスト、ネクタイという整った姿をした牛尾は、その外見とは裏腹に、恐ろしい執着心を見せます。
牛尾の接近を告げるのが、「ちゃぽん」という水音です。
この音は、牛尾が証拠や遺体を消すために使用する液体の入った容器から聞こえるものとして描かれます。
ただし、液体の具体的な性質や処理方法は、現実の犯罪手段を説明するような形では詳述されません。
姿を見せる前に音だけで危険を知らせる演出は、とても映像的です。
ページに「ちゃぽん」と記された瞬間、読者の頭の中にも牛尾の影が立ち上がる。
私はこの反復が、科学ミステリーへ怪談のような冷たさを加えていると感じました。
紫陽と牛尾の正体は?日江製薬と樹木の会の研究

紫陽は、ループクンド湖で発見された少女の古人骨から得た遺伝情報をもとに誕生しました。
一方の牛尾は、樹木の会を創設した真鍋宗次郎の遺伝情報をもとに生み出された存在です。
樹木の会は、真鍋宗次郎が創設した大規模な宗教団体でした。
作中では政界、警察、報道、産業界などにも影響を及ぼせる組織として描かれます。
真鍋には、自分の血を引く子どもを後継者にできない事情がありました。
そこで日江製薬の前会長・七瀬弓彦らが関わり、真鍋の遺伝情報を利用する研究が進められます。
その結果として誕生したのが牛尾です。
牛尾は一人の子どもとして望まれたのではなく、真鍋の代わりとなる存在として育てられました。
真鍋の意思を受け継ぎ、教団の目的を実現することが、生まれたときから牛尾へ与えられた役割だったのです。
作中では牛尾の衝動性について、モノアミン酸化酵素に関係する遺伝的特徴と結びつける説明も登場します。
ただし、これはあくまで小説内の人物設定です。
現実では、暴力性や人格を特定の一つの遺伝子だけで説明することはできません。
人間の行動には、複数の遺伝的要因、成育環境、経験、社会との関係などが複雑に関わります。
牛尾は真鍋から、ループクンド湖の骨を利用して「聖母」を誕生させ、教団へ迎えるよう教え込まれていました。
真鍋の死後もその命令から離れられず、計画を完成させようと動き続けます。
研究の中心にいたのは、七瀬京一、石見崎明彦、仙波佳代子らです。
なかでも仙波は、研究の倫理性よりも「科学的に実現できるか」という好奇心を優先する人物として描かれます。
長い年月を経た骨から、同じ遺伝情報を持つ人間を誕生させられるのか。
その壁を越える研究の末に生まれたのが紫陽でした。
紫陽は、真鍋の予言に登場する「聖母」として樹木の会へ差し出される予定でした。
代理母として利用されたのが、悠の実母・楓です。
夫を亡くして心が弱っていた楓は樹木の会と接点を持ち、やがて研究へ巻き込まれます。
出産は楓の身体へ深刻な負担を与え、その後の健康状態にも影響したことが物語の中で示されます。
ただし、病気や死について医学的な因果関係が詳細に実証されるわけではなく、秘密の研究が楓へ大きな犠牲を強いたという物語上の描写として受け取るのが適切でしょう。
京一たちは誕生した紫陽を教団へ引き渡さず、死亡したことにして隠しました。
紫陽を学校へ通わせず、外部との接点を制限したのも、樹木の会から発見されないためです。
しかし、守るための行動は紫陽から普通の人生を奪いました。
友人をつくることも、自分の出生を知ることも、将来を自分で決めることもできません。
成長した紫陽には、身体機能が次第に衰える問題が現れます。
紫陽は石見崎教授のもとで身を隠しながら療養し、教授の娘・真理の身分を借りて生活していました。
悠が学会で見かけた女性は幻ではありません。
唯に付き添われて会場を訪れていた、本物の紫陽だったのです。
それでも紫陽は悠の前へ戻れませんでした。
病気によって外見が変化していく中で、悠がかつて何気なく話した「見た目が変われば気持ちも変わるかもしれない」という趣旨の言葉を忘れられなかったからです。
悠にとっては深い意図のない言葉でも、紫陽には鋭いとげのように残っていました。
彼女を苦しめていたのは、クローンとして誕生した事実だけではありません。
姿や能力が変わった自分でも、家族として愛してもらえるのか。
その不安こそが、紫陽を悠から遠ざけていたのです。
唯と真理の正体は?入れ替わった人物関係を解説
悠と行動していた石見崎唯の正体は、石見崎教授の実の娘・石見崎真理です。
一方、周囲から石見崎真理として扱われていた車椅子の女性が、行方不明になっていた七瀬紫陽でした。
人物関係を整理すると、次のようになります。
序盤での名前・立場 本当の正体
石見崎唯 石見崎教授の実娘・石見崎真理
石見崎真理 身を隠していた七瀬紫陽
石見崎教授の姪・唯 真理が使っていた偽名・偽の立場
石見崎教授は、紫陽を樹木の会から隠すため、娘の身分を利用して保護していたと考えられます。
ここは作中の状況から導ける解釈であり、「最初からすべてが綿密に計画されていた」と細部まで明言されるわけではありません。
真理も「唯」と名乗り、父の死と紫陽の失踪を調べていました。
彼女は単なる案内役ではなく、父に隠されていた真実を、自分自身の手で確かめようとするもう一人の当事者です。
この反転が巧みなのは、悠の精神状態を利用して読者の判断まで揺らす点です。
悠は薬を服用し、周囲から記憶を否定されていました。
そのため読者も、「紫陽は本当に存在したのか」「悠が見た人物は幻だったのか」と疑います。
一般的な心理ミステリーなら、主人公の認識が壊れており、信じていた人物が最初から存在しなかったという結末も考えられます。
ところが本作は反対です。
悠の記憶が完全に壊れていたのではなく、周囲の大人たちが名前、身分、情報を操作していました。
つまり悠は、「信用できない語り手」ではありません。
信用できない環境に閉じ込められ、自分を信じられなくなった語り手だったのです。
真実を知ったことは悠にとって救いになります。
しかし同時に、父、恩師、家族が長い間、自分へ真実を伝えなかった事実も受け止めなければなりません。
さらに、真理が「唯」という別人を演じる構造は、本作のクローンという題材とも重なります。
紫陽と牛尾は、他者の代わりになる目的で生み出されました。
真理もまた、事件を追うために本来の名前を隠し、別の人物として生きます。
登場人物たちはそれぞれ、本人が望んだ名前ではない「役」を背負わされているのです。
山城美術館の最終対決はどうなる?牛尾の死と事件の処理

終盤では、悠、真理、紫陽が山城美術館へ逃げ込み、追跡してきた牛尾との最後の対決を迎えます。
牛尾は死亡しますが、火災や警察官の死を含む事件の全容は、樹木の会の力によって表沙汰にならないまま処理されます。
山城美術館は、かつて悠の母方の祖父が運営していた白い洋館です。
すでに閉館していますが、悠と紫陽にとっては、子どもの頃に二人で映画を観た思い出の場所でした。
美術館へ続く山道には、地元の子どもたちが挿し木した紫陽花が植えられています。
館内にはミノタウロスを描いた絵や巨大な両刃の斧が残され、周辺の道も迷路のように入り組んでいます。
作者の松下龍之介さんは受賞コメントで、本作を「迷宮」をテーマにした作品だと説明しています。宝島社『このミステリーがすごい!』大賞公式サイト
牛を連想させる名前を持つ牛尾が、迷宮の奥にある建物で悠たちを追い詰める。
そこへミノタウロスの絵や斧が重なることで、山城美術館は神話の迷宮を思わせる舞台へ変わります。
楓は生前、紫陽へ「ミノタウルス」から身を守るための短剣を渡していました。
短剣、斧、絵、入り組んだ山道。
それまで断片的に置かれていたモチーフが、最終対決で一つにつながっていきます。
この時点の紫陽は、自力で動くことさえ難しい状態でした。
真理も負傷し、悠にも牛尾を正面から圧倒できるような力はありません。
三人は館内の構造や残された道具を利用し、必死に逃げます。
真理は牛尾の追跡を止めるため、美術館へ火を放ちます。
悠も牛尾と直接向き合い、最終的に牛尾は命を落としました。
悠は、牛尾の遺体を隠そうと決断します。
しかし現場には火災、大量の血痕、牛尾に殺された警察官の遺体など、通常なら隠し切れない痕跡が残されていました。
ここで物語は、探偵が証拠を示し、犯人が法によって裁かれる一般的なミステリーとは異なる方向へ進みます。
警察や報道にも影響を及ぼせる樹木の会が、事件そのものを公にならない形で処理するのです。
巨大組織の影響力があまりに強く、現実性の面では大胆な展開だと感じる読者もいるでしょう。
私も、火災や警察官の死まで完全に抑え込めるのかという疑問は残りました。
ただ、その割り切れなさが本作の苦い余韻にもつながっています。
普通のミステリーなら、謎が解ければ世界に秩序が戻ります。
本作では真相へ到達しても、権力が真実をもう一度土の下へ埋めてしまうのです。
また、紫陽は京一が準備していた薬を投与され、衰えていた身体機能を回復させます。
薬の開発過程や作用は詳しく説明されないため、科学ミステリーとしては物足りなさが残る部分です。
一方で、この回復によって物語の問いは「紫陽を救えるのか」から、「救われた紫陽が何を選ぶのか」へ移ります。
『一次元の挿し木』原作の結末は?紫陽が教祖になる理由
『一次元の挿し木』の結末で、紫陽は悠と真理を守るため、樹木の会の新たな教祖になります。
それは教団に屈服したというより、教団の権力を自分の意思で利用するための選択でした。
樹木の会は、ループクンド湖の古人骨から生まれた紫陽を、真鍋宗次郎の予言に登場する「聖母」として待ち望んでいました。
紫陽にとって教団は、自分を一人の人間ではなく、信仰の象徴として利用しようとした組織です。
本来なら、何よりも遠ざかりたい場所だったはずです。
それでも紫陽は、自ら教団の中心へ進みます。
山城美術館では牛尾の死だけでなく、火災や警察官の殺害も起きました。
真相がそのまま捜査されれば、悠と真理は重大事件の当事者として厳しい追及を受けます。
二人を守るには、警察や報道へ強い影響力を持つ樹木の会の力が必要でした。
紫陽が教祖になれば、事件を表面化させずに処理できます。
しかしその代わり、悠と同じ家で暮らし、家族として穏やかな日常を送る未来からは遠ざかります。
そのため、原作の結末は単純なハッピーエンドではありません。
悠、紫陽、真理が生き延びたことには救いがあります。
一方、日江製薬の研究や樹木の会の犯罪が社会へ公表され、すべての関係者が法によって裁かれるわけではありません。
仙波佳代子も、自分に危害が及んだ場合に研究データが外部へ送られる仕組みを用意し、情報を盾に生き残ります。
倫理を越えて研究を進めた人物が、その研究成果によって自分の命を守る。
そこには、すっきりと正義が勝つ物語では得られない、鋭い皮肉があります。
それでも、紫陽の決断には悲しさだけでなく、小さな反転があります。
紫陽はこれまで、生まれる目的、育つ場所、名乗る身分、外へ出る時期まで、大人たちに決められてきました。
最後に教祖となる道も、表面だけを見れば真鍋の予言どおりです。
しかし今回は、誰かに命じられて進むのではありません。
紫陽は教団の目的と自分の出生を理解したうえで、その力を悠と真理のために使うと決めます。
他人から与えられた役割を、自分の意思で引き受け直した。
私は、その一点にこの結末の希望があると感じました。
原作ネタバレから考察する『一次元の挿し木』3つのテーマ
『一次元の挿し木』が描いているのは、同じ遺伝情報を持つ存在を生み出す技術だけではありません。
物語のテーマは、「遺伝と環境」「保護と支配」「与えられた役割の選び直し」の3つに整理できます。
遺伝情報が同じでも人生は同じにならない
挿し木とは、植物の枝や茎を切り取り、別の場所へ挿して新たな個体として育てる方法です。
元の植物と遺伝的な特徴を共有しながら、異なる土、光、風の中で根を張っていきます。
真鍋宗次郎から生み出された牛尾と、古人骨から生み出された紫陽は、人間の「挿し木」のような存在です。
しかし二人は、元となった人物と同じ記憶を持っているわけではありません。
同じ遺伝情報を受け継いでも、経験、人間関係、与えられた言葉によって異なる人格が育ちます。
牛尾は真鍋の代わりとして扱われ、命令へ従うことだけを教え込まれました。
紫陽も聖母になるために生み出されましたが、悠、楓、京一、石見崎、真理との時間を通じて、一人の人間としての感情を育てます。
二人の違いを生んだのは、DNAだけではありません。
誰と出会い、どのような言葉を受け取り、最後に何を選んだかという時間の積み重ねです。
牛尾の暴力は許されません。
それでも彼を生まれつきの怪物だけで終わらせず、真鍋の目的へ従うよう作られ、育てられた犠牲者でもあると描いた点に、本作の厚みがあります。
守るための秘密が支配に変わっていく
京一や石見崎は、紫陽を樹木の会から守ろうとしました。
その動機には、研究へ関わった罪悪感だけでなく、紫陽を一人の人間として生かしたいという思いもあったはずです。
しかし二人は、紫陽の出生を隠し、学校へ通わせず、悠にも真実を伝えませんでした。
安全を守る代わりに、紫陽から情報と選択肢を奪ってしまいます。
大切な人を危険から遠ざけようとしても、本人に何も知らせず、人生を決めてしまえば、保護は支配へ近づきます。
悠が自分の記憶を疑うようになったのも、紫陽が自分の価値に怯えるようになったのも、大人たちが善意の秘密を積み重ねた結果でした。
本作では悪意のある樹木の会だけでなく、善意を持つ家族や研究者も、紫陽の自由を奪っています。
だからこそ、「守るとは何か」という問いが単純な善悪では終わりません。
与えられた役割を自分の意思で選び直す
紫陽は聖母になるために誕生しました。
牛尾は真鍋宗次郎の代わりとして誕生しました。
真理は父の死を調べるために「唯」と名乗り、悠は周囲の嘘によって自分の記憶を疑わされます。
登場人物の多くが、本当の名前や気持ちとは異なる役割の中に閉じ込められているのです。
牛尾は最後まで、真鍋から与えられた役割を手放せませんでした。
一方の紫陽は、最終的に聖母として教祖になります。
結果だけを見れば、樹木の会の計画どおりに思えるでしょう。
しかし決定的に違うのは、誰のためにその役割を引き受けたかです。
真鍋たちは、教団を存続させるために紫陽を聖母へしようとしました。
紫陽は、悠と真理を守るために自ら教祖になることを選びます。
役割そのものは同じでも、その意味は反転しました。
自分を利用しようとした教団を、今度は紫陽が大切な人を守るために利用するのです。
自由とは、あらゆる役割から逃げることだけではありません。
逃げられない状況の中でも、その役割に自分なりの意味を与え直すことがある。
紫陽の結末は、その苦くも静かな自由を描いているように思います。
『一次元の挿し木』は科学ミステリーとしてどう評価できる?
『一次元の挿し木』は、現実の科学を厳密に再現するハードSFというより、DNA鑑定とクローンという題材から人間ドラマを広げるエンターテインメントミステリーです。
冒頭のDNA一致は非常に強い謎ですが、終盤には科学的な説明より物語上の驚きや救済を優先した部分もあります。
現実のDNA鑑定では、保存状態や汚染、試料の劣化、分析可能な領域など、さまざまな条件を慎重に検討する必要があります。
また、古い人骨から得た遺伝情報だけで、かつて生きていた人物とまったく同じ人間を再現できるわけではありません。
仮に核DNAが近い存在を生み出せたとしても、子宮内環境、成長過程、経験、記憶まで同一にはなりません。
つまり、遺伝情報が同じであることと、「同じ人物」であることは別です。
本作も、その違いを物語の中心に置いています。
紫陽は約200年前の少女の復活ではありません。
同じ遺伝情報を出発点にしながら、悠たちとの関係を通じて独自の人格を育てた別の人間です。
一方で、紫陽の身体を回復させる薬や、組織が事件を処理する終盤の展開には、説明が足りないと感じる部分もあります。
論理的な科学捜査だけを期待すると、後半の追跡劇や巨大組織の力を派手すぎると感じるかもしれません。
それでも、場面を短く切り替えながら新しい疑問を重ねるため、物語を前へ進める力は強烈です。
不可能ミステリー、心理サスペンス、宗教団体の陰謀、怪物からの逃走劇が、一つの迷宮のようにつながっています。
そして最後に、山道へ植えられた紫陽花の挿し木と、紫陽自身の人生が重なります。
元の枝から切り離され、他者の都合で別の場所へ植えられたとしても、どこへ根を伸ばすかまで完全には決められない。
その小さな抵抗こそが、割り切れない結末の中に残された希望なのでしょう。
まとめ
『一次元の挿し木』は、約200年前の古人骨と、4年前に失踪した七瀬紫陽のDNAが一致する謎から始まります。
調査を依頼した石見崎教授の殺害と古人骨の盗難をきっかけに、悠は石見崎唯を名乗る女性と協力し、日江製薬と樹木の会が関わる研究へ近づいていきました。
紫陽は、ループクンド湖で発見された少女の古人骨から得た遺伝情報をもとに誕生した存在です。
牛尾もまた、樹木の会の創設者・真鍋宗次郎の遺伝情報を継ぐ存在として生み出されました。
悠と行動していた唯の正体は石見崎真理であり、真理として隠されていた車椅子の女性が紫陽でした。
山城美術館で牛尾が死亡した後、紫陽は悠と真理を守るため、樹木の会の教祖になる道を選びます。
事件の全容が公表されることも、秘密の研究に関わった全員が裁かれることもありません。
それでも、他人に人生を設計されてきた紫陽が、最後に自分の意思で役割の意味を選び直したことには、静かな希望があります。
同じ遺伝情報を持っていても、同じ人間にはならない。
人を形づくるのは出生だけではなく、出会った人、受け取った言葉、そして自分で下した選択なのだと伝える物語です。
よくある質問
『一次元の挿し木』の紫陽の正体は?
七瀬紫陽は、ループクンド湖で発見された約200年前の少女の古人骨から得た遺伝情報をもとに誕生した存在です。
過去から時間移動してきた本人ではなく、古人骨の人物と同じ遺伝情報を持つ別の人間として描かれています。
石見崎唯と真理は同一人物ですか?
はい。悠と一緒に事件を追っていた石見崎唯の正体は、石見崎教授の実の娘・石見崎真理です。
一方、真理として保護されていた車椅子の女性が、失踪していた七瀬紫陽でした。
『一次元の挿し木』の結末はハッピーエンドですか?
悠、真理、紫陽が生き延びた点には救いがありますが、完全なハッピーエンドではありません。
紫陽は二人を守るために樹木の会の教祖となり、悠と普通の家族として暮らす未来を手放します。
結城サキ


